建物と人 : [箱崎九大記憶保存会]
戸部田はきもの店
「戸部田はきもの店」は、大学通りの中ほどに位置する老舗の下駄屋さんです。一歩踏み入れば素敵な下駄がとりどりに並ぶ店内で、箱崎に暮らして60年の戸部田絹子さんにお話をうかがいました。
1928年創業の「戸部田はきもの店」ですが、その以前にも長らく船大工を営んでおられた歴史があります。お話を聞かせてくださった戸部田絹子さんは、ご結婚して戸部田家に暮らすようになった1950年代当時のことを教えてくださいました。
「義父が造船所をしながら、下駄屋をしてて。昼間は造船所で働いて、夜は下駄鼻緒を、職人さんを手伝ってやったりして。昔はすごかったです。お店を通り抜けられんくらい、人でいっぱい。『ちょっとすいません』って言わんと表に出られんくらい。〔…〕特に正月はすごい。昔はね、盆正月に一家みんなの分の下駄を揃えよったから。だから、これくらい子どもの下駄から、おじいちゃん用にいたるまでたくさん買い込んで。昔はみんな親と同居やったけんね。」
もちろん九大生もお世話になっていました。下駄を履いた学生が街中を歩く姿が当たり前であった時代もありましたが、それが一変する転機があったそうです。
「九大の学生さんは1割引き。前は下駄を履いて(学校に)いかれよったけどね、音がするからね、キャンパス内は下駄は禁止になった。そげん校門で履き替えるっちゅうことはないでしょうもん。それで下駄は履かんようになった。」
たしかに、今でも文学部の壁には『下駄禁止』の張り紙が残っています。なんとなく不思議に見ていた張り紙でしたが、こんなところにも、かつての箱崎を偲ばせる足跡が残っていました。
さらに、現在は絹子さんの娘・船越希代さんがお店を継ぎ、伝統ある人気店として活躍されています。「今はコンピューターでしんしゃあけん、私はさっぱり」とおっしゃいながらも、絹子さんも現役です。希代さんの手で、お店の素敵なfacebookも運営されています。
学生街、箱崎の思い出
箱崎に住んで60年の絹子さんは、にぎやかな学生街で九大生たちの生活を見守ってきました。絹子さんは、学生たちとのたくさんの思い出を懐かしく語ってくださいました。
「(お店の)目の前が、今は駐車場になっとるけどそこがね、2階に広間もある料亭やった。それはもう、九大の学生さんが追いコンと歓迎コンパがね、わたしの部屋は3階やけ、見えるったい。もう声が高いけん、わあわあ言うけんよく分かるわけよ。『またなんかしようばい、踊りよんしゃあ』って。一気飲みしたりね、酔っ払って道に寝とるとよ。だけどね、だんだんだんだん、そういうバンカラ学生さんがおらんごとなったよ。売り出しの時期になったら、ここら辺は『大売り出し』って旗がずーっと店の前に立ちよった。その旗を持って学生さんが走ったりしてたもんね、ここらを。」
「昔はうちはタバコ屋もして、公衆電話もあったから。医学部の学生さんがね、家に電話かけようわけ。それがね、医学書っていうのは高いったいね『参考書が高い』って、『お金が足りん』って、彼女と手を繋ぎながら電話してる。だから私が『彼女と手繋いでますよー!』って(ふざけて後ろで騒いだり)。面白かったよ。」
キャンパス内での下駄の使用が禁止されたこともあり、九大生が足を運ぶことは次第に少なくなってきたようですが、「たまにね、『就職決まった!』って言って報告にきたり」と馴染みの学生の帰ってくる場所にもなっています。「今の学生さんは品がいいね。もうバンカラさんはおらんしゃれんもん」と懐かしく振り返る絹子さんですが、今でも5年ぶりに訪ねてきた卒業生を家に招いたりと、変わらず九大生を見守ってくださっています。
さらに、学生運動が盛んだった頃に幼少期を過ごした希代さんからは、当時の思い出を教えていただきました。
「私がちっちゃい時に、北門(現在の中門)を出て貝塚駅の方に行く道を、あれを右に回ったところにカマボコ型の建物があって。そこが九大の学生運動の中核派のアジトみたいになってて、コーラの瓶がバーって立ててあった。私たちはほら、九大は遊び場やったけど『子供はここに近づいたらいかん』って言われて。今考えたら火炎瓶作りよったわけ。この(商店街の)通りも、私が小学校上がったぐらいの時に、それこそみんなヘルメット被って、棒もって、ジグザグしながら『安保粉砕!安保反対!』って。それ見て小学校で遊びよったもん。当時は意味わからんかったけど『安保反対!安保反対!』って、長い箒もって真似して(笑)。すごいことが直ぐそこであってるのに、普通にここでは日常の生活が行われている。子供達はそうやって遊んでいる。そんな時代やった。」
九大移転への想い
絹子さんの娘で、現在は店主を務めておられる舩越希代さん。箱崎から九大が去っていくことについて、その思いを話してくださいました。
「(大学に)関わっている土地としては、そこである意味、生業として収入も得ていたんだけれども、どっかでその…学生を精神的に支えるっていうか、そういうものも含めてここで仕事してたんだと思うの。商売してたら、九大生だから割引してみたりとか。たとえば、魚屋さんだったら『いいよいいよ、このイワシ持って行っていいよ』とか、そういうことはずっとあってて。そういう共存の仕方。飲み屋さんにしても、学生だか宴会を安くしてあげたりとか、そういうことたくさん。そこには、みんなの気持ちには、『学生さんたちをサポートしよう』とかっていう土壌はずっとあった。」
九大生は、箱崎の街に支えられながら暮らしてきました。箱崎と大学が密生に関わってきた時代を経て、キャンパス移転が進んでいく背景には社会的な状況の変化もありました。箱崎の移り変わりについて、希代さんの次のような語りがあります。
「(移転が決定した1990年代初頭)そのころももう大規模小売店舗はあって、だんだん商店街も廃れていくような方向になって行ったころやけん〔…〕あとはやっぱりほら、バブルで地上げとかもあった頃とちょうど(移転決定が)重なってて。アパートやってた人たちも辞めて、土地売ったりとかする頃にもちょうど。複雑な時代背景と移転問題が重なってた。」
「(移転決定後には)学生さんがいなくなったよね。それが、ちょうどワンルーム化とかさ、そういう時期と重なっちゃってて。今も若い人たちはいるんよね、多分。〔…〕少し前は、大学生はアパートとか下宿とかで、オープンな生活やった。街にもうちょっと馴染むっていうか。でも、今は若い人がいても、ワンルームに住んでるからどんな人かまったく分からんやろ?(移転決定の)その前くらいから九大生も近所のおばさんにお世話になることもなく鍵一本で、っていう時代になってたから。だからその時代の変化と一緒に、気づけば九大生もいなくなって。」
時代の流れとともに次第に姿を変えてきた箱崎の街ですが、なかでも九大の移転はとりわけ大きな転機でもあります。「当たり前にあったものが一気に壊されて、ああ、こんな風になっちゃうんだ」という希代さんの言葉は重く響くものでした。それでも、積み重ねられてきた歴史は変わることはなく、戸部田はきもの店は2018年に90周年を迎えます。
冊子「箱崎」(2018年4月)より
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